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いろいろな古代史雑感 のメニューです 1.公地公民制の見直し |
公地公民制といえば、大化の改新から、大宝律令の制定へと続いた、日本古代の変革の時代の、それも制度改革の目玉のようなものとして、中学高校の歴史の教科書に取り上げられていますから、歴史のかなり嫌いな人でも、耳になじみがあるものでしょう。
さて、今回、問題提起をしたいのは、公地公民の導入で何が変わり、何が変わらなかったのか、ということについてです。今までの一般常識からすれば、大化の改新以前に、大和政権という今日の日本統一政府のごときものができていて、その大和政権内部のクーデターというか、政治改革というか、とにかく新しい変化がこの大化の改新だった、ということですから、改新以前は、個々の豪族が所有していた土地を一気に国有化し(公地)、各地の民を直接天皇に従属する民(公民)として公地を分け与えた、という制度改革だったというイメージでしょうか。
しかし、このイメージには、ずいぶん無理があります。まずクーデターによって潰された蘇我氏の領地や天皇自身の領地については、耕地にすることはできたでしょう(それにしても難しかったはずです)が、改新に協力し、功績を上げた人たち(多分、それに加えて、中立を保った多くの豪族達)の領土を召し上げて、いわば国有地にしてしまうというような強引な政策を断行できるほど、天皇の政権が安定していたとは思えないのです。
そこで、この公地という制度は、ただ単なる呼び名の変更だった、という説が出てきます。つまり、土地や民が豪族に所属しているという状態は、(どの豪族の所有かという変更はあるにせよ)改新前も後もさほどの変化はなかった。しかし、たてまえとしては、公地公民制度というものを導入して、すべての土地、すべての民は、形の上では天皇のもの、ということにした(実態がどうであれ、制度的には整えていこうとした)、この程度の改革が歴史の実態だったのではないか、という説です。わたしも基本的にはこの考え方に賛成です。巨視的に見て、歴史というのは連続した時の流れですから、どんな改革でも、前の時代のものをすべて否定するということはできません。この改革ではどこが変化したのか、と問うことが必要なのです。実際、国造などという制度は、旧国主の権限をそのまま追認するものでしたから、形だけ整えたという側面はいままでの常識の範囲でも見え隠れしていたのです。
もう一つの問題があります。それは、大化の改新時点で、大和政権の支配領域がどの程度のものだったのだろうか、ということです。今までの常識からすれば、九州から関東まで広がる、当時の日本国全域が支配下にあった、ということでしょうが、古田九州王朝説が先鞭をつけて、この当時の九州、関東には、大和の支配が及んでいなかった(別に独立政権があった)という考え方がかなりの説得力を持つようになって来ています。とすると、大和を中心とする、近畿、せいぜい加えて備州、越州、濃尾という辺りが大和政権の支配領域だった、と考えるわけです。
大化の改新の時期は、白村江の敗戦により、(もしあったとしたら)九州王朝が壊滅的打撃を受けた時代です。このときに乗じて、勢力を拡張しようとした大和朝廷は、改新によって政権を安定させ、公地公民というイデオロギーを流布させつつ、勢力の拡大を行っていった、このように考えることができるでしょう。大宝律令による整備にしても、唐の制度をそのまま輸入してすぐに実践できるわけがないので、実際にはできる範囲で施行し、できない部分にも思想としては浸透させていった(形としては整えていった)、ということでしょう。
さて、いままでの常識で言えば、荘園制度というのは、公地公民が行き詰まって現れたもの、なのですが、上に見たような新しい考え方に立つと、この荘園制度こそ、公地公民に実態を与え、大和朝廷の支配領域をそれこそ、九州から関東に至るまでに広げていった原動力だ、ということになります。
ギリシャの歴史哲学者ヘロドトスは、その著作『歴史』の中で、古代国家のことをノモスと呼んでいます。ノモスという後は通常法律の意味に用いられるのですが、もともとは、ある決まり事のこと、領域を指して使われたノモスは、一つの決まりごとの通用する領域という意味でした。ヘロドトスは、古代ギリシャの都市国家を描く時にも、古代エジプトやオリエントの国家を描く時にも、この同じノモスという言葉を用いています。
さて、この記述に対して、2つの見方ができます。まず第一に、ヘロドトスはギリシャ人として、自分の国のあり方を先入観(バイアス)として、古代史を描いていった、だから、すべての古代国家を都市国家として描いているのだ、という考え方です。古代オリエントには、強力な中央集権的な王制が成立していた(ピラミッドなどの巨大建築物はその証拠)という学説、というよりも、われわれの持っている一般常識がこの見方によっています。
ところで、面白い事に、ヘロドトスは、後の時代の都市国家にはポリスを、アッシリア以後のオリエントの大国にはバシレイアを使って、ノモスという言葉を避けています。また、アッシリア学という考古学の特殊分野では、アッシリア以前にオリエント全域を支配しようとした王国はないという事が常識になっています。アッシリアは軍事力をたのんで、この偉業を実現しようとしたが、天才的な軍人王アシュールバニパルの死後、広がりすぎたその王国は急速に音を立てて崩壊した、というのです。アッシリア以前の、古バビロニアにしてもウル第三王朝にしても、チグリス河の、流域に出来上がった、村落国家の少し発展したものに過ぎない、このような見方が、オリエント古代史では広がっています。ヒッタイトも、ミタンニも、ペリシテ、シリヤ、フェニキア、ギリシャなどの都市国家と、国家規模としてさほどの違いはなかったというわけです。そうだとすれば、たとえピラミッドなどという反証が出ようとも、エジプトもまた、テーベやメンフィスあたりに出来上がった都市国家、と考えるほうが自然なようです。つまり、案外、ヘロドトスのノモス(村落共同体)という用語法は、歴史を正しく反映していたのかもしれないのです。
さて、四大文明の残り二つ、インドと中国ですが、インドについては、インダス川流域のハラッパやモヘンジョダロの遺跡が村落型の都市国家だという説に、異論を唱える人はいないでしょう。また、中国についても、殷墟自体は、河南省安陽県小屯村にあり、その規模も村落型の都市国家と考えてよい。これまでは、この場所を殷の首都と考えていたのだが、(そして、殷=商の末期になれば、それなりの領域を持った、中央集権国家に成長したと考えて良いのだが)実は、この殷墟自体が殷という古代国家だったと、考える事もできるのです。また、そうであるとすれば、殷以前の「夏」王朝は、当然に黄河流域の村落型都市国家程度のものと考える事ができ、多分それならば、その近辺に数ある古代集落遺跡の中の一つを、「夏墟」と同定する道が開けてくるかもしれないのです。
ヘロドトスの、ノモスという記述を単なるギリシャ人の色眼鏡と解釈するか、それとも、彼の歴史眼に信頼を置いて読み進めていくかで、古代社会を見る目がこれほど変わってしまうのです。なお、近頃話題の説として、古代文明ステップ発祥説、というものがあります。この議論についていくときにも、殊にサハラ南部のステップ気候帯で発達した古代都市国家群を、古代文明と認めていくなどの際に、古代国家ノモス論が実に有力な前提(作業仮説)を提供してくれる事がわかると思います。
海は障害ではなく通路だった。
古代文明は、大河の流域に生まれた、というのが定説ですが、サバンナという気候帯が、文明の発祥に深くかかわっているという説が有力になってきました。同様に、古代社会を分類すると、牧畜社会と農耕社会とに二分され、このうち農耕社会で最初の文明が発祥した、というのが定説ですが、そもそも、二分できるのだろうか、という当然の疑問が生じます。つまり、農耕にせよ牧畜にせよ、そういう文化圏はこの当時の四大文明圏の周囲、サバンナ気候からステップ気候までの地域をしか視野に入れていないのです。ところが、その北に広がる大森林地帯、あるいは海岸地帯では、狩猟あるいは漁労が社会の基礎にあって、多少遅ればせながら、文明もまたこれを中心に発達していくのです。
古代海洋文明として、代表的なものは19世紀末〜20世紀初頭にアーサー・エヴァンズ、ハインリッヒ・シュリーマンが発掘した「エーゲ海文明」です。この文明は、当初、クレタ島という地中海に浮かぶ小島で発祥しており、典型的な海洋文明です。前2600頃の青銅器文化の遺物が見られるというのですから、メソポタミヤでシュメール人によるウル連合王国がまとまり始めていた頃、エジプトで言えば古王国時代、第四王朝のピラミッドで有名なクフ王の時代、中国で言えば殷の時代です。クレタ文明の最盛期は、少し下がって前19世紀と言われていますが、この程度の誤差であれば、四大文明(五大文明になるのかな)の仲間入りさせてあげても良い気がします。
さて、このクレタ文明は、いわゆる四大文明と異なり大河の流域にもサバンナ気候にも依存していません。むしろ基礎となったのは漁労とその基地となる小さな海岸部農村で、早くから、舟を使った通商、魚介類と農作物との交換経済が成立します。文字や学問は、この地域では測量の必要からではなく、商取引の必要から生まれてきます。使用されていた線文字Aは未だに解読されていない謎の古代文字でもあります。
クレタ文明を継承した、あるいは、滅ぼして乗っ取った(どちらに取るかは主観の問題ですが)のが、後のギリシャ文明に繋がるミケーネ文明です。ギリシャ人たちの都市国家群は、このミケーネ文明を基礎に、アーリア系のドーリア人たちの侵入を受け止めて、築き上げられた海洋文化と考える事ができます。この文明圏は、エーゲ海を中心として、その両岸のアカイア(ギリシャ)とイオニア(いまの小アジア)に広がります。もちろん、クレタ島、レスボス島等のエーゲに浮かぶ島々がそれぞれ大切な拠点であった事は疑いを得ません。逆に言えば、クレタに発祥した海洋文明が、両岸にその地盤を見出して、確固たる海洋文化圏を築いていったのがこの時期です。
ほぼ同時代に、地中海貿易のうまみを独占しようと進出してきたのが、アケメネス朝ペルシャです。ペルシャは、一方で紅海、ペルシャ湾の出口を抑えていたので、地中海の制海権を獲得する事により当時の独占的貿易国家になりえたのです。このペルシャの政策を生み出したもとは、フェニキア人とユダヤ人だと思われます。ユダヤ人は早く(ソロモン王の時代)から紅海、ペルシャ湾貿易のうまみを知っていた民族で、フェニキア人は、ギリシャ人と競い合いながら、エーゲ海、黒海、地中海と幅広く航海を行っていた民族でした。この二つの民族を傘下に入れたペルシャは、まず手始めに、エーゲ海を抑えに出撃し、そこでギリシャから手痛い反撃を受けるのです。
この時代のギリシャは、エーゲ海を自分たちの庭のように知り尽くしており、陸戦よりも海戦を得意とする民族でした。(アテネは海戦でペルシャを破り、強いはずのスパルタは陸戦でペルシャに惨敗しています)その意味で考えると、デロス同盟の盛んな時代は、文明の上ではギリシャの最盛期なのでしょうが、本来の海洋文明から撤退し、内陸の拠点によってギリシャ人が分裂した時代、その意味で、むしろ衰退期と考える事もできるのです。
老舗ギリシャの海洋文明が衰退したのと交代に、フェニキアがその支配を延ばしてきます。サルジニア、キプロス、コルシカ等の島々に拠点を置きながら、その対岸のカルタゴ、イスパニア、イオニアなどに次々と植民市を築きます。南イタリアにも、進出するのですが、そこで、既に定着しているギリシャの植民都市と衝突を起こします。これが当時まだ内陸部に暮らし、海洋文明の恩恵を受けていなかったローマ人を刺激します。イタリア半島を統一し、ギリシャ人たちをラテン市民として取り込んだ(グレコローマン)共和制ローマは、西地中海の制海権をかけてカルタゴと戦います。これが3次にわたるポエニ戦争で、ことに国家としては既にローマの相手ではないほどに疲弊してしまったカルタゴを、それでも滅ぼすところまで戦い抜いた第3次ポエニ戦争は、ローマによる海上支配権の禅譲儀式だったと言えるのです。
東地中海は、この頃プトレマイオス朝が制海権を握っていましたが、ポンペイウスによる海賊退治というのは、実はこのプトレマイオス朝の護衛船団つきの、商戦キャラバンの殲滅だった、という有力な説があります。この説が正しいとすれば、ポンペイウスがやりかけたこの事業を引き継いで完成させ、エジプト海軍をアントニウスもろとも屠り、地中海全域の制海権を確立したのが、初代ローマ皇帝アウグストスことオクタビアヌスということになります。こうして、古代海洋文明から発展した地中海文明の継承者はローマになりました。そして、このような意味での地中海国家は、このローマを最後に現れなくなります。最もその領域に近い、イスラム帝国も、内陸に拠点を置いたという意味では、地中海国家足り得なかったのです。
ところで、ルネッサンスで文化的に古代回帰しようとしたヨーロッパ世界が、一方で大航海時代に突入していく、というのは興味ある考察です。ヨーロッパ人によるアジア、アフリカの植民地化も、カルタゴ・ローマへの憧れから始まったものなのかもしれません。
(蛇足)魏志倭人伝に出てくる、邪馬壹国は、日本海を中海とした海洋文明国家、という形態ですね。そうすると、その源流は、壱岐・対馬あたり?わたしの「あいより始まる」はこんな仮説の上に書いているのですが。
昔の世界史の教科書は、東洋史と西洋史に分かれていました。そして、東洋史といえば中国中心、西洋史と言えばギリシャローマ、ヨーロッパ中心の勉強だったのです。その影響か、いまだに世界史を考える時に、中華史観、欧米史観に偏りすぎている気がいたします。確かに中国は、各時代の歴史書が揃っており、その意味で研究しやすい地域です。また、近代歴史学が発展した時期=ヨーロッパ世界の発展期ですから、ヨーロッパ中心の歴史研究もその量が多いわけです。しかし、いつもこのどちらかの世界を中心とした世界史を描く事で満足していて良いのでしょうか?
キリスト教に、「天国地獄」の思想があります。仏教には、「地獄極楽」の思想があります。これらはそれぞれ独立に発展してきたのでしょうか?キリスト教で言えば、その発端であるイエス・キリスト、あるいは、パウロの思想に「天国地獄」はありません。仏教でも、釈迦や竜樹の思想に「地獄極楽」はないでしょう。これらの思想は、ある意味では、後の時代に導入されて行った考え方です。ゲルマン民族の大移動は、遠く中央アジアからのフン族の移動が引き金になりました。そうして、このゲルマンたちが建てた国々の中で、キリスト教は「天国地獄」思想を発展させ、中世ヨーロッパを支配する思想ともなっていきました。一方、三国並立の時代に中国に伝わっていた仏教は、極めて異国的なもので、「地獄極楽」思想も持っていませんでした。その後、南北朝時代に、仏教は土着化するのですが、それは、匈奴を始め多くの塞外諸民族が北に王朝を立て中国化していったためです。これらの王朝の中で、またその後継として中国全土を再統一した隋・唐王朝の下で、仏教は土着化し、同時に「地獄極楽」思想をその核に持つようになったのです。この意味で、「天国地獄」思想と「地獄極楽」思想に接点があります。それが中央アジアです。見方を変えてみましょう。これらの思想は、中央アジアに発し、その民族の移動を通じて、キリスト教、仏教という世界の二大宗教に深い影響を与えたのです。
アケネメス朝ペルシャという国があります。紀元前6世紀に建国され、前539年にキュロス王の下、バビロニア帝国を滅ぼしてオリエント世界最後の王朝となり、前333年、イッソスの戦いに敗れてアレクサンドロスにその覇権を譲り渡すまで、およそ200年間、この地域に君臨した大帝国です。この帝国の支配者たちは、イラン人で、中央アジア、西トルキスタンの出身です。(余談になりますが、このトルキスタンという固有名詞自体、この地域からトルコ人が現れたことに起因しています。イラン人がこの地から民族移動したのは、それよりもはるかに前の事ですから、この言い方はあまりふさわしくないのかもしれません。それは、パレスチナという地方名が、ペリシテという一部族にちなんでいるという事情と似たようなものなのです。)このペルシャ帝国が存在したからこそ、アレクサンダーの統一事業がスムーズに進められたのですし、その後のヘレニズム文化も形成されたのです。イスラム帝国にせよ、モンゴルの支配にせよ、統一事業はみなこの基盤の上に打ち立てられていきます。官僚制度、屯田制など、ペルシャ起源の社会制度は多いのです。これらがペルシャ王の独創であったのか、それとも、その祖型を中央アジアの社会に見る事ができるのか、これもまた大きな研究テーマと言う事ができるでしょう。
アレクサンダーの遠征は、インドで止まりました。止めたのはクシャーナ朝、やはり、西トルキスタン出身の、インド最初の統一王朝でした。アレクサンダーの後継王朝セレウコス朝に大きなダメージを与えたのは、バクトリアの独立、この王朝自体は、ギリシャ系の王朝なのですが、この地域、ソグディアナ地方(やはり中央アジアです)は、大月氏国としてむしろ中国周辺の歴史で知られています。ここでも、東洋史と西洋史、更にインド史は中央アジアに連結点を持ちます。見方を変えれば、中央アジアという地域の攻防が、世界の中心だった時代でもあるのです。意外なところへの波及もあります。それは、いまのミャンマーのビルマ人、タイのシャム人なども、元を辿れば中央アジアに起源を持つ事です。文化面では、インドの一部学者層によって、細々と伝承されていた、原始仏教が、中央アジアから、これらの民族を経由して、東南アジアの地に小乗仏教として定着した事が特記されなければなりません。よく南伝仏教という言い方をするので、セイロン辺りからの海上伝達かなと想像していたので、これはわたしも意外でした。
ユーラシア大陸の北辺に向かう経路は明らかではないですが、匈奴にしても、突厥にしても、出自が明らかでない民族は、中央アジア出身を疑ってみる必要もあります。言いたい事は、世界史を語る上で、あまり脚光を浴びては来なかった中央アジアという地域を、一度改めて中心において、世界史を書き直してみたら、まったく変わった新しい視点が生まれてくるのではないか、ということです。シルクロードについても東西交通路としてだけ私たちは見ていましたが、その認識を改めて、まず中央アジアの生活道路、それが中央アジア出身の民族の発展、あるいは民族移動の中で、より広い領域を繋ぐ道となり、やがて東西交通路として機能しだしたのだと見ていく方がより正確なようです。
いま、世界を騒がしている、タリバン政権も、西トルキスタンの南辺、やはり中央アジア諸国の一つです。いまでこそ貧困にあえぐこの地域が、かつては、豊かな文明を生み、多くの民族を育んできた豊穣の土地であった、という歴史も今だからこそ、改めて覚えなおしていく必要があるのではないでしょうか。